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聖木曜日   Feria V in coena Domini

 聖週間中の木曜日はローマ式典礼において「主の聖餐の木曜日(フェリア・クィンタ・イン・チェナ・ドミニ)」と呼ばれる。それはこの日イエズスが御弟子達と最後の晩餐を共にし、その席上御聖体の秘蹟を定め、また「わが記念としてこれを行え」と仰せになって彼等に右の秘蹟を犠牲として献げる権威を委ね給うたからである。聖会の初代には、この日(一)聖油を祝別するため(二)悔悛者を赦すため(三)御聖体の御制定を記念するため、それぞれ一つずつ、都合三つのミサ聖祭を行うのが暫く毎年の例になっていた。しかし現在では聖油の祝別のための聖香油ミサと聖木曜日の晩の聖晩餐記念のミサ聖祭の二つの御ミサが献げられる。

(一) 本日の御ミサには全く独特の意義がある。それは聖晩餐の記念ということである。そして最高の司祭がキリストの役を勤め、他の聖職者達が使徒となってその手から御聖体をいただく。もちろんその時には平信徒も、その昔晩餐の広間に集まって親しく主の御手から至聖なる御体を授かった御弟子達のつもりになるのがよろしい。

 この御ミサには喜びと悲しみと、二つの気分が表されている。即ち祭壇の飾りや、祭服及び祭壇十字架のおおいが白であることやグロリアの聖歌を歌いその間鈴や鐘を鳴らすなどは喜びの表現であるが、このグロリアの後聖土曜日のグロリアまでオルガンも鈴も鳴らさぬのは、主の御苦難の切迫を憂え、ユダの裏切りを悲しむ心を示すのであって、その裏切りに就いては聖祭中の祈りにしばしば言及される。またユダが接吻を以て主を売った所から、本日の荘厳ミサには親睦の接吻が省かれる。

 入祭文に於いて我等は聖主イエズス・キリストが全世界のため十字架上の死をも辞せず御身を一時永遠の犠牲として献げ給うたことを思い見ては、その御愛の深さに感泣せずにはいられない。その祈りは我等にユダの恐ろしい貪欲と悪行とを示し、真剣に償いを献げようという心を起こさせる。

 書簡の主要部分は最後の晩餐に於けるイエズスの御約束、即ち御聖体の秘蹟御制定に関するもので、聖パウロは更に筆を進めて御聖体拝領の正しい意義を明らかにし、その為十分準備せねば主の御肉御血を汚すと戒めている。

 福音は主が御弟子達の足を洗い給う所で、主の御謙遜と、果て知れぬ御愛の程が偲ばれ、それを拝聴すると我等も力の及ぶ限り隣人の為尽くさねばならぬと痛感せずにはいられない。

 奉献の所では主がゲッセマネの園で来るべき受難に対し、血の汗を流すまで憂え祈りつつも御自分の御死去の世に及ぼす広大な功徳を思うては敢然とこれを甘受する覚悟を定め給うた、その次第を黙想してもよい。それから密誦の所では天主が犠牲を我等からの聖き献げ物として嘉納されん事を願う。

 本日の御聖体拝領誦の中には、主の博大な御愛の今一つの記念なる御洗足に関する祈りがある。最後の祈りに於いては御聖体の聖主に対して、不滅永生に至る御恵みを祈り求めよう。

 ミサ聖祭が済むと一同行列して御聖体を特別の礼拝所、あるいは美しく飾った他の祭壇に奉遷する。これは聖金曜日に行われる御聖体予備の御ミサに用いる為である。


(二) 聖油の祝別

 これは司教に非れば行い得ぬ聖式であるから、司教座聖堂の外では見られない。聖会には病者用聖油、洗礼志願者用聖油、堅信用聖香油の三つの聖油がある。病者用聖油とは終油の秘蹟及び鐘の祝別式に用いるもの、洗礼志願者用聖油とは洗礼用聖水の祝別、授洗、司祭叙階、及び祭壇の祝別に用いるもの、また堅信用聖香油とはあらゆる油のうち最も貴重であって、いわば聖霊を伝える如き作用をなし、洗礼、堅信、司教叙階式、並びに聖堂、ろうそく、パテナ、鐘の祝別に用いるものである。聖油の祝別式は最も荘厳に行われ、出来るならば十二司祭、七助祭、七副助祭がこれにあずかるを要する。まず病者用聖油がミサ聖祭中主祷文の前に祝別され、他の二つは御聖体拝領の後に祝別される。これら聖油の効能に就いてはその祝別の祈りに示されているが、例えば洗礼志願者用聖油は霊肉を清め、悪魔の勢力を駆逐する作用を持ち、聖香油は成聖の聖寵をもたらすのである。


(三) 祭壇布その他の装飾除去

 昔はミサ聖祭が終わるといつも祭壇布を取り去るのが習慣であった。これはつまり祭壇を、聖餐の時だけ布をかける食卓と見なしたのである。今はこの昔の習慣を聖週の間守る。祭壇布を除くのは、同時にイエズスが十字架にかかるべく御衣を剥がれ給うた故事を思わせる。故にこの式を行う時には、詩編二十一の「彼等は互いにわが衣服を分かち、わが下衣をくじ引きにせり」という句をその交誦と共に祈る定めとなっている。かくて一切の装飾を取り除いた聖堂は、いかにも味気ない物淋しいありさまを呈するのである。


(四) 洗足式

 この日の御ミサでは、もう一つの聖い習慣が行われる。それは「主のおきて」とも呼ばれる洗足式である。これは最後の晩餐の時使徒達の足を洗い給うた主が「我なんじらに例を示したるは、わがなんじらに為しし如く、なんじらにも為さしめんためなり」と仰せられたに基づく。

 この式において、キリストが十二使徒に対してされた如く、司祭は十二人の信者の足を洗う。そしてその前には聖福音の吾が主御洗足のくだりが朗読され、その最中には聖歌隊により、模範とすべき主の愛の御業が歌われる。というのは隣人愛こそキリスト信者の印であり、愛と四海同胞の観念がある所には天主もまた在すからである。かくて最後に、この洗足によって外部の汚れが除かれた如く、我等一同の内部の穢れ(罪)も清められん事を主に祈って式を終えるのである。